さよなら絵梨

創作が好きで創作を描く創作家というのは、「ピアノを弾くことが好きでピアノを弾くピアノ演奏家」みたいな感じで異様な雰囲気がありますね。ピアノを演奏することが好きで、ピアノで何を弾くかという話ではない、みたいな感じ。何を弾きたいかという話ではない。ピアノを弾くことが好きなら、ピアノそのものを賛美しよう。みたいな。

藤本タツキさんの最近の短編ってそういう感じがあり、「ピアノを弾くことが好き」だが「何を表現したら良いのかは分からない」「自分が何が弾きたいとかは無い」みたいな人が増えそうだなって思う。何も弾きたくないなら弾かないでもいいのよ。創作家である必要はないし。

でも、ピアノが好きなことの何が悪いの?って感じよね。ピアノを弾くという行為そのものが好きで尊いと思うなんて、ピアニストにうってつけの素質じゃない?生きてればそのうち、表現したいことなんて出てくると思うからさ。出てこないならやめればいいし、出てこない方が幸いです。

 

ということで、さよなら絵梨ですが、

たぶんなんですけど、何かの創作物をこね回していると、ずっとずっとそれに囚われることになるんですよね。場合によっては何年も。それこそ映像媒体になるとロングスパンでもあるし。で、何かのブレイクスルーや、ひらめき、諦め…「ひとさじのファンタジーが足りない」のようなひと言を受け取って、結果爆発=終わりにさせることができるんですよね。

ひとさじのファンタジーという言葉は、何もあのラストで出てきた新鮮な言葉ではなく、もともと主人公の中にあったものに再び光を当てる構図なのが、そっかー!という気持ちになりました。

最後は自分へとかえるんだなぁと思うわけです。いろんなテクニックとか、いろんな脚本、文、漫画の技術があるけれども、最後の最後にお出しされるのは作家本人の一番奥底にあるものなんじゃないでしょうか。一番幼く、それでいて一番基本の、一番長けた部分が出る…それこそ才能のような感じ。

才能が光るのは、ほんとにほんとに最後の部分だけ。そして、その「最後に光るような才能」というのは、ほとんど全員の人がもっているのではないかと思うんです。

しかし、その最初にして最後の個性、才能を活かすところまでいけるのかどうか。苦難を経て、一番自分の長けた部分を再発見できるのかどうか。それを受け入れることができれば、盛大でサイコーな大爆発、最高の形での物語からの開放=作品の完成へとたどり着けるのではないでしょうか。そして完結する創作物に背を向け、清々しい気持ちで新しいものへと向かって行ける。

自分は自分自身からは逃げられないし、良いと思ってるモンは最初から最後まで同じ、という皮肉にも取れるけど。

あとなんか主観カメラって怖いね?脳が勝手にホラーを予感するみたい。