第九、板付き、睡魔
大晦日の第九見ました?ですよね!見ませんでしたよね!
だって面白い番組がたくさんあるし……わたしも数分チャンネルを合わせたあとは違う番組にしてしまいました。
那須川天心が人を殴るところがどうしても見たかったので。火がついたように人を殴っている人間を見ると癒やされますよね〜!年末って感じがします!ベートーヴェンのしつこいカデンツァと同じくらい、これで終わりだ〜!!という感じがします。
(たぶんカメラワーク的にそういうふうに見えただけですが)今回のコンマスの人はほとんど目線を上げず指揮者を見ないのに対し、次席のヴァイオリンの人はかなり視線を上げて指揮者をこまめに見ていたのを見て、
社会の縮図を感じました。
第九は全部で4楽章あります。合唱がついているのはそのうちラストの4楽章だけ。だから、合唱の人は3楽章までは出番がありません。
交響曲は長く、3楽章の終わりまで舞台上で待っているとだいたい眠くなるか、具合が悪くなってくるので、3楽章終わりでゾロゾロと合唱の人たちが入ってくる。というケースが多かったんですね(と思う)
が、今回の第九、板付きでしたね〜〜!!わたしが見たとこは2楽章だったんですが、2楽章のところですでに合唱とソリストが舞台上にいたので、1楽章頭から板付きだったのではないかと思います。
なぜ、そういうふうにしたのか?毎回3楽章終わりで合唱とソリストに入ってもらった方が楽だし体調不良も出ないし、何より直前まで声出しできるし、ソリスト含めパフォーマンスが良くなると考えられるのに、何故そうしないのか?って気になるじゃないですか。
わたしも気になったのでいろいろ調べたり聞いたりしたんですけど、
「ベートーヴェンの第九の歌唱は、それまでの楽曲や形式に対する否定から入るから。『そうじゃない!それも違う!』と歌うのに、それまでの部分を舞台上で聴いていないのはおかしい」
から、みたいなこと言ってる人が多いっぽいです(ほんとか???)
第九は、ベートーヴェンの時代までの楽曲の形式をなぞって進むのですが(室内楽等)、そのうちのどれでもなく、たどり着いたのが合唱であり人の声だった。というストーリーなので、合唱やソロを歌う人が舞台上にいて、そこまでの部分を聴いていて、否定しないといけない、というのです。
そういうところを尊重し、1楽章から合唱も板付きで上演されることがあるのですね。
いや、でも眠いが?3楽章まで暇なのに、眠いが?????
普通にCDとかサブスクで一回くらいみんな第九聴いてるから、その場で聴いてなくていいのでは??
眠いが???